北国街道(善光寺〜出雲崎宿)      全行程マップ

 1日目
2015年12月30日(水)

 長野駅〜牟礼駅
  約16.7km

 ウォーキングマップ
長野駅〜善光寺宿〜新町宿〜牟礼駅

 北国街道は、中山道追分から善光寺を経て新潟県高田までの道です。追分から善光寺までは、善光寺街道という名もついています。
善光寺までは歩いていますので、今日は善光寺から歩きました。 松本を6時53分の篠ノ井線で長野まで行き、まず善光寺へお参りに行きました。
風はないものの、長野は雪がチラチラ降っていました。善光寺は、朝8時頃にもお参りに来ている人も何人もいました。
善光寺から新町宿(あらまち)を目指して歩き始めました。しばらく歩くと「柏崎地蔵」がありました。謡曲「柏崎」は越後から我が子を訪ねてきた柏崎勝長の妻が善光寺で花若と再開する話です。一里塚がありました。

 新町宿は、稲積・徳間・東条の三村を通る街道に変更され、三村一宿の新町宿が誕生しました。街道沿いの吉田神社は全国68の一の宮を境内に祀ってありました。正面の本殿の他に、神社の祠も両側に作られていました。地域の人の信仰の厚さを感じました。

 しばらくすすむと、左手に広い田子池があり釣り人が何人か竿を垂れ釣りを楽しんでいました。辺りは山の間の鄙びたところで、店らしきものもなく、民家もまばらでした。右手の宇佐美沢一里塚を越えて車道から旧道の草の繁る中を進みました。山上りの道ですぐに車道に出ましたが、旧道の土の上を踏みしめると足にもやさしく、旧道を歩いているという実感があります。

 まだまだ上りは続き、原池と一里塚を過ぎると、下りになります。国道の広い通りに出て右に曲がると三本松がありました。この三本松は、小林一茶の父との別れの場所とのことです。一茶が、十五歳の時江戸へ方向に行きました。父は柏原宿から牟礼まで送ってきたときの別れの場所ということだ。

 歌碑が建てられていました。
   父ありて 明けぼの見たし 青田原


 宇佐美沢の一里塚


 牟礼宿の道標
2日目
2016年5月3日(火)

 牟礼駅〜野尻湖
  約13.2km

 ウォーキングマップ
牟礼駅〜牟礼宿〜古間宿〜柏原宿〜野尻湖

 牟礼宿から柏原宿を経て野尻湖
北国街道は、中山道追分から善光寺を経て新潟県高田までの道です。
昨年末12月30日に牟礼まで歩きました。今日は、前回の続きで牟礼宿から柏原宿へ。そしてナウマンゾウが発見された野尻湖まで歩きました。

 前回の続きの牟礼駅から街道に向かいました。信越本線のガードの脇に「北国街道 牟礼宿」の石碑があります。ガードを越えて牟礼橋を渡って左折し牟礼宿に入るとそこは東の桝形になっていました。
桝形は牟礼宿の出口にもあり、宿の入口と出口の両方に桝形があるのはその宿が大切に考えられているからだと、牟礼の役場前にいた方に教えてもらいました。右手に得満寺の古い立派な鐘楼門、正面に證念寺(しょうねんじ)がありました。ここがまた桝形になっていて「十王坂」と彫られた石碑があります。 十王坂は、證念寺の石垣と土塀の横にあり、坂の途中には「十王堂」がありました。十王堂は死後の世界をつかさどる十人の王を祀ったお堂です。
 北国街道の重要な任務は佐渡の金銀を江戸へ送る中継地点で、新しい馬の背に乗せ換えた金附場跡の標識がありました。

 この辺りは小玉鎌の店が多く、小玉鎌の元祖「黒柳沖之助寿蔵」の碑もありました。その先には、「武州加州道中境碑」があり、加賀前田藩の参勤交代道中120里の中間点にあたるそうです。

 その先の白い花が咲いたリンゴの樹が並ぶリンゴ園から古道に入って行きました。小玉坂の古道は、「美しい日本の歩きたくなる道500選」に選ばれた道で、林間の古道は、可憐な花をつけた草や杉などの木々に囲まれた気持ちのよい道で今の時期だと、蕗や蕨・コシアブラなどの山菜も見られました。

 馬頭観音などの石仏群も祀られていてかつては馬頭観音を祀った観音堂もあったという。「小玉こどう会」が案内板を整備したり街道の保護に努めてくださっているようでありがたいことと思いました。

 小玉坂は、北国街道では碓氷峠の次の難所と言われていたそうですが、それほど険しくもないかなーと思いながら進みました。坂道を下り落影集落に入り、国道を渡ってさらに左手の林間の道を進み小古間宿へと進みました。林を抜け、小古間集落に出ると、視界が開け山々の連なりが見渡せました。 この辺りは、信越五岳のうち、「飯綱・戸隠・黒姫・妙法」の四山が見渡せる場所です。まちの整備の作業をしていた地元の方に山の名前を教えていただきました。

 古間宿には古間鎌の店が並んでいました。古間宿本陣跡を過ぎてしばらく歩き、鳥居川を渡るともう柏原宿です。左手にあった諏訪神社には一茶の歌碑が有りました。

 松陰に 寝てくふ六十よ州かな

さらに進んで一茶の晩年に住んだ土蔵がありました。古間宿・柏原宿のあちこちに一茶の歌碑が建てられ一茶の句に触れることが出来ました。

野尻の一里塚の手前の食堂「樹香」で昼食をとりました。野菜あんかけラーメンと海鮮あんかけラーメン。ものすごいボリューム。
野尻の一里塚を見て野尻湖へ下るが、猛烈な風と帰りの電車の時刻より妙高高原駅行はあきらめ野尻湖までとしました。強風のため野尻湖の船も出ていません。
タクシーで柏原宿の一茶記念館へ移動、。一茶の句のスタンプラリーをしながら一茶の生い立ちや句について詳しく知ることができました。黒姫駅まで歩いて松本へ戻りました。

 
  古道と新道の分かれ道(右が古道)


  左から 戸隠山、黒姫山、妙高


  小林一茶の旧宅
 3日目
2016年10月2日(日)

 野尻湖〜二本木駅
  約21.4km

 ウォーキングマップ
野尻湖〜野尻宿〜関川宿・上原宿〜田切宿
  〜二俣宿〜関山宿〜二本木宿〜二本木駅


 北国街道は、中山道と北陸道をつなぐため、江戸時代初期に整備されました。軽井沢の追分で中山道と分岐し、善光寺を経て越後高田へ至り、幕府の財政を支えた金銀の輸送や諸大名の参勤交代の道として大切な道でした。

今回は野尻湖畔の野尻宿〜二本木宿までで、5月に歩いて以来久しぶりの街道歩きでした。野尻湖のナウマンゾウ博物館と関川の関所は、9月18日に車であらかじめ見学をしましたので、今回は野尻からひたすら北国街道を歩きました。

 ナウマンゾウの化石の発掘で知られる野尻湖は「まず、掘ってみよう。」と1962年、井尻氏の提案で発掘が始まりました。およそ4万年前の氷河時代のナウマンゾウや野尻湖人が使っていた石器の化石が展示されていました。

 野尻から1時間ほど歩いて関川の橋に着きました。ここが、信濃と越後の国との県境です。関川には、立派な関所跡が復元されていました。
江戸時代の関所の様子を再現したジオラマや人形が展示され、貴重な文献資料を見ることが出来ます。

関所を出て妙高山を見ながら歩きました。通りの家々は三階建てが多く、一階はガレージか物置になっていて二階に玄関が作られていました。そして屋根の形は、傾斜が急な作りになっていました。

また、道路の中央には水を出す穴が設けられていて、雪を解かすために水を流すしくみになっているらしい。道路わきには川が流れていて、これも雪を流すための設備となっています。歩いていると、どこからともなく水の流れる音が聞こえてきます。道路の仕組みや、屋根の形など生活の様式の違いが感じられました。

関川の関所に隣接して、関川宿と上原宿がありました。この二つの宿は、村が異なるだけの隣接した宿で、半月交代で問屋業務を勤める合宿でした。関川宿にも上原宿にも本陣跡がありました。それぞれ大きい敷地に池のある庭が作られていました。

 歩いていく途中に珍しい「スキー神社」がありました。日本唯一のスキー神社は昭和初期に建てられ、社殿正面にスキー板がかたどられていました。

 田切一里塚を越えると田切宿があります。田切宿と次の二股宿は郷田切川を挟んで隣接し、半月交代で、問屋業務を勤める合宿です。

 大田切石仏群がありましたが、越後の一番の難所ということで大田切川を越えるのが大変だったようです。

 石仏群を過ぎた右手から、山道に入り川まで古道(田切古道)がつながっていました。いかにも昔のままの古道で通れそうに見えたので草をかき分けつつ進むと、川の橋が見当たらず進むことはできませんでした。戻って新しい橋を渡って進むと、古道の出口らしい場所がありました。良い道でしたが、橋がない事には渡ることは出来ず、残念に思われました。

次の宿は関山宿で、清水が流れている「泉地蔵」、関山神社、北沢一里塚、猿石、馬洗い場の大石など当時を思い起こさせるものが残されていました。

関山宿からさらに歩いて、二本木の駅に向かいました。この駅は傾斜があるため今も各駅停車の列車はスイッチバックで駅に入ります。そんな珍しい駅から電車で帰路に着きました。

 
  関川の関所


  スキー神社

 古道入口

 古道出口
 4日目
2017年5月1日(月)

 二本木駅〜高田駅
  約23.4km

 ウォーキングマップ
二本木駅〜新井宿〜高田宿〜高田駅

  去年、10月に歩いてから久しぶりの北国街道歩きです。
朝6時に篠ノ井線で松本から長野で乗り換え、しなの鉄道で妙高高原駅で乗り換え妙高はねうまラインで二本木下車。二本木はスイッチバックの駅として知られています。

あいにくの雨模様の天気で、歩き始めた頃にはぽつぽつと雨が降り出しました。ここ、中郷地区間の二本木宿と松崎宿の二つの宿場は「合宿(あいのしゅく)」と呼ばれ15日おきに交代で役を務めていたそうです。二本木宿の少し先に一里塚がありました。右手にこんもりとした土の上に木が建っていました。

妙高山や連なる山々、のどかな田園風景が続いていました。その先に「小出雲坂」があります。

「越後見納め、小出雲坂  雨の露やら涙やら」

と歌われているように、高田から長野へ向かって歩く旅人が坂の途中で後ろを振り返ると、越後の海が見える、越後も見納めかと歌った歌です。

その先に、飯山道道標があり、飯山街道との追分です。「左 飯山道 右 善光寺道」と刻まれていました。

新井宿に入ると、北国街道の表示が街道沿いの街灯の上についていました。この辺りは、石屋さんが大半を占めていたそうで、今も石材店が軒を連ねていました。

その先の、矢代川に架かる瀬渡橋は北国街道最長の橋です。橋を渡ると、伊勢町口番所跡がありました。城下町の入り口で、一里塚と番所跡が並んでいました。

高田宿は、城下町が関川の下流域につくられたため、海岸を通っていた街道を内陸まで迂回させたそうです。日本一の深雪都市で、道沿いに庇が15メートルも連続する日本一の雁木通りです。昭和の写真を見ると、庇の横は雪の壁になっていて、雪国の暮らしの様子が分かりました。

高橋孫左衛門の飴屋には、十返舎一九のが滞在し「金草鞋(かねのわらじ)」の中で絵入りでこの店を紹介しています。また、夏目漱石の「坊ちゃん」の中でも乳母きよの好物として、笹飴の事が書かれています。2階に上がって、貴重な資料を拝見しました。

今日の街道歩きは高田までです。高田城は、土塁の上に建つ三重櫓です。外堀には蓮が栽培されていました。花の時期には綺麗なことでしょう。

 
  高田の雁木

  高橋孫左衛門の飴屋

  高田城の三重櫓
 5日目
2017年5月2日(火)

 高田駅〜直江津駅
  約11.2km

 ウォーキングマップ
高田駅〜直江津駅

 北国街道 高田から直江津
昨日の続き、高田から直江津まで歩きました。街道歩きの前に、上杉謙信の居城だった春日山城へ行きました。春日山城は、180mの山に築かれた山城で、自然の地形を生かした郭、空堀、土塁などが築かれ、毘沙門堂・景勝屋敷跡などの遺構も数多くあるようです。今回はこれから街道歩きなので、山に登らずに麓にある「ものがたり館」のみ見学しました。

高田から歩き始めました。高田の町は城下町として整備され、北国街道の通りは、問屋や商店、旅籠が立ち並んでいます。それぞれの職業に応じて、奥行きが長く大きな吹き抜けがある「町屋」に集住したそうです。
 その町屋は家々の軒先を伸ばし、雪国における生活通路の雁木通りが続いています。今日もその雁木通りを歩きました。

 町屋の中で、「町家交流館 高田小町」を見学しました。
ここは明治の町屋三軒分の広い間口で立派な大屋根と土蔵のある商家を復元させています。
 高田の城下町の端、本町七丁目を突き当たると、北国街道追分の道標があります。ただし、道標はそこの場所になくて道路を渡った神社の境内に移されていました。
「左加賀道、右奥州道」と石に刻まれていました。

右の奥州道のほうへ進みます。終点は出雲崎、まだまだ先は続きます。
 朝立ち寄った春日山城の案内の標識を越えて、直江津に向かって歩きました。
途中昔の街道の面影を感じさせる桜並木が続いていました。

春日新田宿の手前までで北国街道とは別れ、直江津駅までのウォーキングとなりました。
 
  町屋交流館 高田小町


  加賀道と奥州道の追分道標
 6日目
2017年7月2日(日)

 直江津駅〜柿崎駅
  約21.0km

 ウォーキングマップ
直江津駅〜春日新田駅〜黒井宿
            〜潟町宿〜柿崎駅


 北国街道 直江津から柿崎まで21km
 梅雨前線の影響で、雨が心配されますが松本を朝6時に出発した時には雨も止んでいて、篠ノ井線の車窓から有明山に虹が架かっているのが見られました。
9時に直江津から歩き始めました。関川に掛かる直江津橋には安寿と厨子王の物語のレリーフが刻まれています。
 春日新田宿には、春日神社の隣に馬市跡の碑が建っています。馬喰又左衛門は春日新田駅を馬市で繁栄させました。
 黒井宿は、潟町砂丘の西側にあり、海が見えました。
黒井宿から鉢崎宿までは海岸と並行し、犀浜七里と呼ばれています。
 潟町宿には小山作之助像があります。「夏はきぬ」の曲を作曲した音楽家です。
米山道道標があり「米山道、左奥州道」と刻まれていました。
 ここには人魚伝説があり、人魚像もあるそうです。海岸の砂浜に建てられているらしく、見ることが出来ませんでした。
 柿崎宿には柿崎漁港にハマナスの花の自生地があり、赤い花が咲いていました。
雨の予報でしたが、たいした雨も降らず無事に歩くことが出来ました。
 

   安寿と厨子王のレリーフ

 ハマナスの花
 7日目
2017年7月3日(月)

 柏崎駅〜米山駅
  約21.0km

 ウォーキングマップ
柏崎宿〜鯨波宿〜鉢崎宿〜米山駅

 北国街道 柏崎から米山まで逆方向に歩く
 昨夜は柏崎に泊まりましたが、夜中雨が降り続いた影響で信越本線が運休となり夕方5時まで動かないことになりました。 松本まで帰りたくても、帰る手段もありません。そこで柏崎から逆に歩くことになりました。

 雨はあがっていました。柏崎宿には柏崎陣屋跡がありました。たち地蔵とねまり地蔵は巨石でできていて珍しいと思いました。
 番神堂は日蓮上人が漂着できたのを感謝して建てられたそうです。
ここの先からの道は海岸と並行して続いています。
 鯨波宿は鯨波海岸の手前にあります。波で削られた岩や岬が素晴らしい景色を見せてくれています。 道路沿いにある木は陸の方へなびいていました。このような木を「よろんごの木」というそうです。

お昼はフイッシャーマンズ・ケープで、名物の鯛茶漬けをいただきました。
 その少し先には恋人岬があり、恋人たちの聖地となっているそうです。

その先は、中越沖地震の影響で道が無くなっていることから、国道沿いをひたすら歩きました。 米山三里道標を越えて歩くと、青海川駅がみえました。海岸のすぐ横に駅があり、日本一海に近い駅とのことです。駅の先には松が崎が見えます。岬の横から滝が見えましたが、柏崎に伝わる悲恋物語の「お弁が滝」だそうです。

 さらに道を進んで振り返ると、田崎鼻の岩肌の「牛が首層内褶曲」が見られます。500年前に堆積した泥岩層が地滑りにより生じたものとのこと。自然の驚異を感じました。

聖ヶ鼻の手前で中越地震のため旧道は消失してしまった(埋まってしまった)ので、仕方なく国道の米山トンネルを恐る恐る歩きました。

その先の鉢崎宿には鉢崎関所跡がありました。鉢崎宿の先、米山駅まで歩き、タクシーで電車の動いている直江津まで行き松本へ帰りました。

 
  よろんごの木


  牛ヶ首層内褶曲


  中越地震で埋まってしまった北国街道
8日目
2018年4月30日(日)

 柏崎駅〜出雲崎宿
  約27km

 ウォーキングマップ
柏崎駅〜宮川宿〜椎谷宿
      〜石地宿〜出雲崎宿


 松本を6時18分の篠ノ井線に乗り、長野から妙高高原駅までは新幹線を使い柏崎に着いたのが10時、新潟は遠いですね。
前回歩いた柏崎の続きから歩き始めました。

柏崎宿
東本町の角に閻魔堂があり、閻魔十王像が祀られていました。当時周辺は馬市で賑わっていたそうです。海を左手に見ながら進み、鯖石川に架かる橋に来ました。
江戸時代は鯖石川は悪田の渡しで越えていたそうです。

「柏崎から椎谷までの間に、荒浜・荒砂・悪田の渡しがなかよかろ」と「三階節」に唄われています。安政元年に、渡し守が有料の橋を架け安政橋に変わりました。

宮川宿
柏崎宿から刈羽砂丘に沿って三里ありましたが、今は原子力発電所が出来たので国道を迂回するしかありません。原発を左手に見て、国道をひたすら歩きました。
歩く道端に、タラの芽が群生していて、歩きながら小さくて美味しそうな芽だけを選んで採りながら歩きました。
途中、東電のホールや、食事やスポーツの施設があり、親子連れでにぎわっていました。
宮川宿入り口のお堂に、三体の石仏が安置されていました。江戸中期の騎馬に乗る珍しいお地蔵さんでした。宮川の清水などを見ながら進みました。

椎谷宿
椎谷藩一万石の陣屋町兼、宿場町です。平成19年7月の中越沖地震で大きな被害を受けました。地震の影響で街道が寸断され、トンネルが出来ていました。それでも椎谷宿の陣屋跡は、草刈りをして説明版を設置するなど整備されていました。
陣屋跡は、トンネルの上の小高い丘の上にあり、広場に植えられた八重桜が満開で
みごとでした。
陣屋跡を下りて観音崎へ上ると広く海が見渡せて、曇っていて見えませんがあのあたりが佐渡だと推測できました。また、仁王門と芭蕉の句碑も良かったです。
この辺りは、中越沖地震の震源地で、国道は普通となり大きな被害が出ました。今も街道は寸断され不通となっていて、トンネルがつくられました。トンネルを越えて、石地宿まで歩きました。海岸端の道です。海風が強いということで、家の前には木でできた風当て(垣根)が立っています。

石地宿
磯に恵まれた海岸が続き、漁業で栄えたそうです。石地海水浴場は、昭和初期に一等当選海水浴場に選ばれ、当時の碑が建っています。道沿いに、雪割草の里や羅石尊がありました。ここまで来てすでに20kmをすぎ、タクシーで出雲崎まで行きたくてもタクシーがいないということがあり、結局今日の宿の出雲崎まで歩きました。
27km、足が痛くなりましたが何とかたどり着きました。

  椎谷陣屋跡
 陣屋跡の八重桜


  出雲崎の夕日
 9日目
2018年5月1日(月)
 出雲崎宿
  約9.5km

 ウォーキングマップ
出雲崎宿

 平成30年5月1日(火)
全日頑張ったので、出雲崎宿をゆっくり見て回る時間がとれました。
○出雲崎
出雲崎宿は北国街道の終点です。50km先には、佐渡島が見渡せました。
丘と海に挟まれたところに妻入りの家が800軒続いていました。
玄関側が道に面して、間口が狭く奥行きの長い妻入りの家々が規則よく並ん  で美しい景観が続いていました。
○芭蕉園
芭蕉園には、芭蕉の銅像と「銀河の序」の文が刻まれた碑がありました。  この公園は敦賀屋の跡です。
○石油記念公園
石地宿出身の内藤久寛は明治24年機械掘りに成功し、これが日本最初の石油機械掘りとなりました。
○良寛記念館
良寛は、橘屋という名家で名主見習いをしていましたが、18歳の時に光照寺  で出家をし、諸国行脚の旅に出ました。清貧の思想を貫いた禅僧で、万葉調の歌人、極致の書家と評された人です。
○良寛生誕の地、橘屋跡に建つ良寛堂
良寛堂は、日本海に向かって眺めのよい高台に建ち、50kmの先の佐渡も見えました。
バスで長岡駅まで行き、直江津、上越妙高、長野と乗り継ぎ松本へ戻りました。
 
 出雲崎宿の街並み


 網堀式石油井戸C2号
 10日目
2018年7月2日(月)
 米山駅〜柿崎駅
  約6.3km

 ウォーキングマップ
米山駅〜柿崎宿〜柿崎駅

 (純一記)
新潟・佐渡旅行の帰りに、北国街道で歩き残っていた区間を歩く。宏子は米山駅で純一を降ろした後柿崎駅で待機。1年前よりも厳しい日差し。熱中症のリスクを感じながら歩く。
米山駅から国道8号線に出て国道を進む。木もなく家もなく影が全くない。旧跡などもなく、わずかに大清水観音の参道の碑があるのみ。その先に国道の米山PA。トイレでハンカチを濡らし頭からかぶって少し落ち着く。
国道から柿崎駅方面へ旧道か分かれる。その先でようやく自販機。水分補給。奥州街道の道標を見て柿崎駅へ。北国街道踏破。
 
 奥州道道標