京都三条大橋から東京日本橋まで 530kmを歩きます。  
2011年10月29日(土)

 ウォーキングマップ
安中宿〜板鼻宿〜高崎宿
         〜倉賀野宿〜新町宿

5月初旬に歩いて以来、半年ぶりの中山道ウォーキングで、久しぶりで待ち遠しい気持ちでした。朝名古屋行きの始発に乗って東京経由で高崎へ。そこから前回の安中まで行きましたが、そこまでたどり着くのが遠くて大変でした。
 10時34分安中に到着、駅横のパン屋さんで軽く食べ、出発は11時近くなりました。
 安中から九十九川にかかる鷹ノ巣橋を渡り、板鼻宿へ。
 板鼻宿は、公民館の奥に和宮資料館があり、和宮が泊まられた本陣の書院が残されていました。しかし、平日のみの公開ということで、中を見ることができず残念でした。街道には、双体道祖神が幾つかありました。
 高崎宿へ向かう途中に、碓氷川を渡ると達磨が奉納される珍しいお寺の少林山達磨寺がありました。川の向こうということで寄らなかったのですが、いつか行ってみたいと思いました。
 黒板塀に囲まれた上豊岡茶屋本陣は、板鼻宿と高崎宿の間に設けられ、参勤交代や上級武士の食事の折に用いられた休憩施設とのことです。上段の間は書院造りで作られ、銀の背景に岩絵の具で竹が描かれた襖や欄間も手の込んだ立派なものでした。
 高崎宿は井伊直政が城を構えた城下町で、本陣も脇本陣も置かれていませんでした。
 そこから倉賀野宿までは、開発された駅近くの商店街や国道沿いを歩くので、街道の面影を感じるような史跡などは残っていませんでした。
 倉賀野宿は日光例幣使道の分岐点、朝廷の使者が中山道から別れ、日光へ詣でた倉賀野追分の碑がありました。倉賀野宿の端には、常夜灯と道しるべ、そして閻魔堂があります。
 そこから烏川にかかる柳瀬橋を渡り、一段高くなった細い道、サイクリングロードへ上がって歩きました。車が通らないと思っていたら、一台の軽トラが向かってきたのでびっくり。
 新町宿には小林本陣跡がありました。新町に近づくと五時頃になり、後は暗くなって本や地図も見えない程になってしまいました。
 新町駅から、高崎駅へ戻り本日の宿へ。


 板鼻の双体道祖神


 高崎 ダルマ工場


 日光例幣使道(右)との追分
2011年10月30日(日)

 ウォーキングマップ
新町宿〜本庄宿〜深谷宿

 昨日の続きの新町宿から歩きました。
 新町宿には行在所公園があり、公園の奥に行在所の建物が残されていました。
 ここは、前回中山道を歩いた時に休憩したところだったと思い出しました。
 しばらく進むと、神流川の両岸にあったという見透し灯篭(常夜燈)が建っていました。その先には神流川古戦場跡の碑もあり、本能寺の変直後の合戦があったとの説明の碑があり歴史の跡を感じました。
 神流川の先に、勅使河原という地名があり、TVで中山道を歩いた勅使川原さんと同じでした。何か、名前の由来があるのでしょうか。
 一里塚跡や庚申塔などを見ながら進むと、泪橋跡の碑や浅間山古墳がありました。
 しばらく行くと、金鑚神社があり、11月2、3日の祭りの準備をしていました。境内には、七五三のお参りの家族が何組もお参りされていました。着物を着て着飾った子供の姿を見ると、家の子供たちのもう15年も前の記憶がよみがえってきます。
 本庄宿には田村本陣門が残されていました。今は、歴史資料館に移築されていますが、堂々とした立派な門でした。歴史資料館の建物は文明開化の遺産とされる旧本庄警察署で、中に、古墳から発掘された埴輪や土器・警察署や戦争の時の当時の資料などが展示されていました。
 本庄宿は人口も多く、中山道最大の宿とされています。庚申塔が幾つか残されていました。
 そこから先、岡部へ向かって旧道を歩くと、国道で道が寸断されているところに行き当たりました。旧道が続いているようですが、道路に柵がされてまっすぐに渡ることができません。そこで少し迂回して国道を渡り、旧道へと戻りました。
 道の駅おかべで昼食をとりました。
 その先は、国道を歩くことになり、単調な平らな道なので、余計に足が疲れるような気がしました。深谷まであと4km、3時までに深谷駅に到着しようと、最後の力を出して歩き続けました。深谷駅は煉瓦造りの立派な建物でした。駅で電車を待っていると、急に雨が降り出しました。雨にあうこともなく、無事に予定通り到着できよかったです。


 神流川の常夜灯

 金鑚神社

 本庄宿 田村本陣門

 深谷駅
2012年2月11日(土)

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 深谷宿〜熊谷宿〜鴻巣宿〜吹上駅

 10月30日に深谷宿まで歩いて以来ずっと天候のせいや都合がつかずに歩けませんでしたが、今日は久しぶりのいい天気に恵まれ、冬とはいうものの風もなく穏やかな日となりました。
 レンガ造りの立派な深谷駅を9時半出発、駅前には日本の基幹産業のもとを築いた明治時代の実業家「渋沢栄一の像」があります。
 深谷宿を過ぎたところに「見返りの松」があります。この松は樹齢325年でしたが、松くい虫にやられて2006年に植え替えられました。深谷宿を過ぎた旅人が、名残を惜しんで振り返ったところからこの名がついたそうです。
 熊谷宿の高札場跡の碑の前で鴻巣宿から歩いてきた御夫婦と出会いました。中山道を歩いている方々と何組も出会いましたが、みんなお互いに同じ目的で歩いているもの同士の親しみを込めてあいさつをします。
 熊谷宿は、質実剛健の坂東武者の地で、農業と商業の盛んな地です。宿を納めていたのは「忍(おし)藩」でした。忍領石標が立てられていて、忍領主が領地の境界を示すために立てたそうです。
 熊谷に入ったところに「新島の一里塚」があります。樹齢300年の欅は12mの大木だったそうですが、これもまた木が傷んで途中から切られており残念に思われました。
 熊谷駅は中山道が駅前の開発のときに途切れてしまい、今はデパートの中を通り抜けるようになっています。駅の近くに県指定の文化財で回遊式庭園「星渓園」があり見学しました。
 しばらく歩くと「東竹院」があり「達磨岩」が祀られていました。だるまの形によく似た大きい岩でした。
 その近くに中山道沿いの茶屋「みかりや跡」がありました。この茶屋は「柚餅子」が名物だったそうです。
 権八地蔵が祀られているところから、荒川の土手の熊谷づつみを歩きました。浅間山と赤城山・榛名山・妙義山がくっきりとよく見えました。散歩中の近くの方が声をかけてくれましたが、富士山も見えることがあるとのこと、見晴らしの良い気持ちの良い土手のウォーキングとなりました。途中には、土手の脇に「一里塚」もありました。
 吹上は熊谷と鴻巣の間の宿で「間の宿」の碑が建てられていました。吹上駅まで歩いて、今日はホテル「マロンド熊谷」に宿泊しました。


 2代目見返りの松
 八木橋デパートの中の中山道


 達磨岩
2012年2月12日(日)

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吹上駅〜鴻巣宿〜桶川宿〜上尾駅

 朝から天気がよく、富士山がくっきりと美しい形を見せてくれていました。
 吹上から歩きはじめ山を眺めると栄泉の「鴻巣吹上富士遠望の絵」と同じ風景を見ることができました。天気がよくて富士山が見えるのが嬉しく思われました。昨日通った「久下の長土手」からも今日ならくっきり富士が見えていることでしょう。
 一里塚跡は字が消えかかって読めない立札がありました。
 街道の歴史の跡を大切にして保存している地域と、そこまで手がまわらないのか整備されていない地域の温度差を感じました。
 昨日から、街道沿いに地蔵堂があり、中には石の優しい顔をしたお地蔵様がいました。
 鴻神社に、「鴻巣」の地名の由来が書かれていました。昔ここには大木が立っていて、毎年災害にみまわれていました。ある時コウノトリが大木に巣をつくり、それからは災害に遭わなくなったことから鴻巣と名付けたそうです。
 鴻巣に入って、鴻巣市役所で「びっくり雛」といってお雛様をピラミッドのような高い雛段に飾るというイベントがあることを知り、ポスターに今日12日10時からとあるのを見て、中山道から外れ、片道1.2kmを歩いて行きました。ところが10時半に到着したのに、初日は11時からとのこと残念ながら外からガラス越しに見るだけとなりました。
 人形町は、「お雛様の里」というだけあって、通りにもお雛様が飾られていました。
 昔から人形職人が多く、今も人形店が多く残っていました。
 間の宿の北本宿には旧家が残っていました。
 桶川宿に入ると、中山道宿場館があり、ガイドの人がいろいろ説明してくださいました。
 その向かいに桶川宿本陣遺構が残されていましたが、公開日でないので、門の外からのぞくだけでした。
 また、桶川は「べにばなの里」としても有名で稲荷神社にはべにばな商人が寄進した石灯篭はあります。
 上尾宿の手前、上尾駅まででゴールとなりました。


 鴻神社

 鴻巣のびっくり雛(ピラミッド)

 桶川宿本陣遺構
2012年4月12日(木)

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上尾駅〜上尾宿〜大宮宿〜浦和宿〜蕨宿

 昨日の雨とはうって変わって朝から良い天気でした。5時48分の恵那の始発で出発し新幹線で東京へ行き、上尾から10時に歩き始めました。
 上尾は、桜が満開でした。恵那はまだちらほら咲き始めたところでしたが、上尾にきて季節が一気に春たけなわとなり満開の桜を思う存分楽しむことができました。ユキヤナギの白い花も満開で、垂れ下がった枝いっぱいの花が春の暖かい日差しを浴びていました。
 上尾宿の鎮守様である氷川鍬神社をお参りし、今日の旅の安全を祈願しました。境内には、朱子と菅原道真を祀る二賢堂跡がありました。また上尾宿には、猿田彦庚申塔が幾つもありました。
 大宮宿には「塩地蔵」「御女郎地蔵」などのお地蔵様が多く残っていました。
 大宮宿は武蔵国一宮氷川神社の門前町で榎並木の参道が2kmも続いています。私たちはなるべく中山道を歩きたいということで、裏参道から神社に向かいました。
 神社は千年以上の歴史を刻む神社だけあって、池の周りに大きな木が茂り、ゆったりと広々とした境内には多くの参拝者がおりました。大きな池の中ほどにある岩に亀が30匹くらいびっしりと岩に上って甲羅干しをしていました。重なり合うように山を作っていたので、最初見た時は本物かどうかわからない程でした。
 浦和宿には本陣跡などの碑は見られませんでした。旧街道をつぶして新たな道が作られたようで街道の面影は見られませんでした。
 蕨宿との間に「調神社(つきじんじゃ)」はありました。ここは鳥居がなく、狛犬の代わりにウサギの石彫刻が迎えてくれました。
 手洗いの水の出るところもウサギの石彫刻でした。ウサギは月の御遣いということでしょうか。
 蕨宿の手前に「和楽備神社」がありました。蕨の地名の元となった神社と思われます。
 今日は暑く、久しぶりに長距離歩いたこともあって、たくさん水分を取りました。いつもよりも疲れた感じがしました。
 夜、蕨宿近くの和食の店で、おいしい魚をお腹いっぱい食べたら、疲れも吹っ飛んで明日がゴールだから頑張ろうという鋭気も湧いてきました。


 氷川鍬神社


 氷川神社

 調神社

 調神社の狛犬(うさぎ?)と手水舎
2012年4月13日(金)

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蕨宿〜板橋宿〜日本橋

 蕨宿より7時半に歩き始めました。蕨宿は、本陣跡と歴史民俗資料館があり、宿場の道の両側には、中山道69宿の浮世絵の絵がはめ込まれていました。
 宿場は整備され、宿場の案内図やふれあいパークもあり、昔の宿場の面影を感じながら歩きました。
 戸田市に入り荒川目指して歩きました。地蔵堂や水神社、川の土手には「戸田渡船場跡の碑」を見て、荒川にかかる長い橋を渡りました。
 板橋宿へは、清水坂を上りしばらく歩くと、道の両側に堂々とした榎が立つ志村の一里塚が残っていました。
 その先の「南蔵院」のしだれ桜が美しく、ちょうど満開の桜を堪能しました。
「縁切り榎」と呼ばれる榎と小さい祠がありました。和宮様が通った時には、コモがまかれ見ないようにしたそうです。
 その先から、板橋の商店街が続いていました。昔からの八百屋さん、小間物屋さん、薬屋さんなどの商店が軒を連ね、買い物客が多くかなりのにぎわいでした。
 板橋宿は、上宿・仲宿・平尾宿の三宿からなります。上宿と仲宿の間にある石神井川に架かる板橋はその名の通り板の橋で、現在はコンクリ―ト製ながら木目調の模様が、昔の橋を思わせるものでした。石神井川の両側の桜も満開で、ちょうど花の盛りにウォーキングできたことが、嬉しく思われました。
 板橋宿には板橋本陣跡の碑があるのみでした。
 板橋で昼食をとってから、いよいよ日本橋を目指して歩きました。
 地蔵通り商店街を進むと、「とげぬき地蔵」として有名な「高岩寺」がありました。
 この商店街もかなりの賑わいで、テレビでも話題となった「赤い下着の店」など特徴ある店がありました。
 巣鴨をぬけて、本郷には東大のキャンパスが続いています。赤門は加賀前田家の上屋敷の御守殿門です。
「湯島の聖堂」は孔子と弟子の像が安置されている建物です。庭には大きな孔子の立像がありました。 寛政2年からは、幕府の昌平坂学問所となったそうです。
 その向かいには、神田明神があります。見どころがたくさんあるので、立ち寄ってゆっくりとお参りしました。
 JR神田駅のガードをくぐり、綱吉が京都から10人の人形師を招いたといわれる「十軒店」(じゅっけんだな)があります。ビルの間を歩き、「三越」の向こうがいよいよ日本橋。ついに534kmの完全踏破となりました。やり遂げた充足感と、高揚感で胸がいっぱいになりました。

 志村の一里塚 
 南蔵院
 縁切榎
 板橋
 赤い下着の店

 日本橋にゴール
2014年5月9日(金)

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南木曽から野尻 与川道

 三留野宿のあたりは、標高1500mの山が木曽川にせまって、大雨の時は蛇ぬけと呼ばれる山津波が起きて、大変危険な場所だったそうです。

 そのため、迂回路として「与川道」が開かれました。

 三留野宿の本陣、脇本陣跡を通り、二十三夜塔から山道に入っていきます。最初の上りは急でぐっと山に上がってっていく感じがしました。アスファルトの道から与川道の石畳の道に入ると、下草も刈ってあり歩きやすく整備されていて、トイレも三カ所も設置されて、街道歩きの人が歩きやすいようになっていました。

 山道は歩きやすいように木の歩道が作られていました。そこで、今日初めて街道歩きの人に会いました。それもスイスから来たという11人のグループです。中山道を歩いて「スイスの山に似ている。」と話していました。「桜の花も咲いていた。」と嬉しそうに話してくれて、山里や山道歩きを楽しんでおられました。

 松原御小休所(まつばらこやすみじょ)は、高貴な方が通行する際、休憩所として見晴のよいところに設けられたそうですが、今は木が高くそびえていて見晴しはよくありません。休憩できるように、屋根のある休憩所が作られていました。

 その先の阿弥陀堂には、庚申碑・巡礼参拝碑・石仏群が残っていました。

阿弥陀堂から、また山道に入ります。 その先に橋が架かっていましたが、江戸時代ここをお姫様が通られるので立派な欄干を付けた橋だったそうです。お姫様が江戸に輿入れする時、与川道を通ったと説明の立札がありました。こんな山の中の道を通ったとは、お姫様の行列も大変だったと思われます。

 その先の山の中に石仏道標があり、石仏に「右やまみち、左のぢりみち」と彫られていました。

 根ノ上峠は与川と野尻の境の峠で、かつてはここにも休憩所が設けられていたそうです。

峠を過ぎるとあとは野尻宿まで車道を下りました。

 中山道の街道歩きをする時は、三留野から十二兼までは国道、野尻までも断続的に国道を歩くようになってしまっています。与川道を整備して歩きやすくなり、道標も立っているので道に迷う心配もありません。もっと与川道を歩いてほしいと思いました。